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反日と捏造等の問題発言を繰り返す醜悪なる文化人た

堕落した為政者と反日の役人たち

反日と捏造等の問題発言を繰り返す醜悪なる文化人たち


終戦後、教育界のドン、大学教授連を筆頭として本当に奇怪なる反日発言をなす文化人は数多い。反日も一つの思想であり、その自由性を否定しようとは思わないが、話に捏造が含まれ、また歪んだ自己の思想と利益の為にて学問を曲げる事はいかがなものかと思うのである。勿論歪んだ思想も一つの思想であり、発言自体を規制しようと思わない。しかし言った言葉には責任があり、奇怪なる発言や捏造等については批判したり、反論したりする事も自由のはずである。ともあれその様な認識にて文化人たちの奇怪な発言等を、ランダムに目について所から指摘してゆく事としよう。

其の1 中村元氏
「スリランカ首相の発言を曲解」
中村元氏と言えば仏教研究の一応の大家であり、業績も多い。それはそれでよいが、先般仏教解説の講演録を音響データで聞いていたら、かなり奇怪な発言をなしていた。次の如くである。

「第二次対戦後、極東軍事裁判において、印度共和国は参加を拒否。……(中略)…スリランカは参加したが、敗戦国から賠償をとるという事に対して」……


「(スリランカは)賠償をとる権利を放棄いたしました。日本が南アジアの国々に害を与えたからといって、その償いの為に賠償せよという事はいわなかったのです。それは何故かと申しますと、仏典の言葉に現れているその精神に基づいているのであります。『人々の中には恨みが支配している。しかし恨みに報いるに恨みを以てするならば、遂に恨みの止む事はない。恨み捨ててこそ、本当に安らぎが実現されるのである。』これはダンパダナ、日本でいう『法句経』の始めの方に出てくる言葉でありますが、その精神を高らかに唱えまして、日本に対する賠償請求権を放棄いたしました。これは仏教の精神が最近代の歴史の中で働いて支配したというその大きな動きでございます。その様な態度で我々は遇せられたからといって、我々は決して過去の事を忘れて償いをしなくてもいいのだとそう思ってはいけませんが、しかしその様な温情を以て、温かい心を以て日本に対してくれた国もあるという事。それを指導された立派な方々があるいう事、対して、我々は懺悔すると共に感謝する事を忘れてはなりません……(やや細かい字句の整えと多少の略分もあるが、概ねは原発言通り)」


「極東軍事裁判」というのは、多分「サンフランシスコ講和会議」の事だと思うが、その様な瑣末な間違いはともかくとして発言の趣旨、本意、その本体となる部分の論説は本当に奇怪にして醜悪であり……そしてこれでは完全な捏造である。
こんな歪んで偏った認識の者が最高学府教授をしているのであるから、それは日本がかくもボロボロに歪むのは無理はないかと思うのである。


其の2 白川静氏 新説を唱えるのはよいが過去の定説否定の根拠の提示を望む
気づいた所、目についた部分から順不同で紹介しています。
次は漢字研究の泰斗とされる「白川静氏」
彼も講演にて先の大東亜の大戦の事を「愚かな戦争……云々」と発言する様な左翼思想の持ち主である様である。大義の為に戦い、命を捧げた英霊に対するこの様な冒涜的発言は如何なものかと思うが、しかしどんな醜悪なる発言であるとも、発言する事自体の自由はあると、それ自体は認める所のものである。
ただやはり問題は彼が唱える学説の内容であり、かなり歪んだものがあるのではなかろうか?
と言って余り同氏の著作をそれほど読んだ事はないが、ただ「武」の字義について『常用字解』で次の様に解説しているのである。

「会意。戈と止とを組み合わせた形。止は趾の形で、甲骨文字の字形は之と同じで、行く、進むの意味がある。戈を持って進む形が武で、それは戈を執って戦うときの歩きかたであるから、『いさましい、たけし、つよい』の意味となる。また戈を持って進む『もののふ、武士』の意味に用いる」


この解説、考え方は多分白川氏のオリジナルかと思うが、「武」おける伝統的字義解釈は「戈を止める」というものである。
勿論学問というものは深く、奥があり、そして新たなるより深い研究を通じて「定説」を打ち破ってゆく事に意義があるが、しかし定説を否定するならば否定するだけの根拠がなければならないと我は考える。
そして新説に関しては根拠のある解析であるならば勿論評価する者であるが、どうも彼の論説はかなり納得できない様に思うのである。
「止は趾の形」というのは意味不明。また「止」と「之」が同じという論も疑問を抱く者である。「之」は確かに「ゆく」の意味がある様に思うが、「止」と「ゆく」では字義が反対である。形が似ているからといって違うものは違うのでのでなかろうか。
そしてそこから飛躍して何故に「戈を持って進む形が武で、それは戈を執って戦うときの歩きかた」という事になるのだろう? 管理人にはわからない。
「戈を持って進む『もののふ、武士』の意味」と言うのも分からない。

以上、学問的立場から管理人の考えを述べたが、彼の論、「武」における字義解釈はそれに内蔵された精神的な深意を否定……ではなく、無視する立場の論である事に怪訝なもの、歪みと偏りを感じるのである。否定なら否定でよい。ただその時はちゃんと根拠を示すべし。いずれにしろ学問と言うもは伝統的な積み重ねを重んじるべきであり、一方的な新説の提示のみと言うのは字義解釈辞書本と言う立場からはいかがなものかと異議を提示する所の者である。


其の3 藤堂明保氏