★八王子の武術遺跡と文化財


●概論
管理人は八王子に居住する前から、多摩の名剣「天然理心流」の研究者であったので、多摩、八王子周辺の天然理心流系の武術遺跡、文献等はかなり探求してきました。八王子や日野には天然理心流の武術遺跡、石碑や奉納額等がある程度点在しています。
そして八王子、それも高尾に近い地(最短駅は高尾駅)に居住する事になったので、八王子の武術遺跡等をおりを見ては調査したいと言う思いが生じました。しかしそれほど強い執念も拘りがあるわけではなく、おりに触れてクロスバイクにて周遊をなすのみです。
ともあれ通りがかりの神社等に武術奉納額等を見つける事もありますが、残念ながら多くは文字も風雨に消え去り、文言が読めない事が多い。木刀、薙刀等が掛かっていた跡なども見受けられますが、概ねはそれも既に欠損している例が多いようです。
もっと本格的に突っ込んで調査すれば消えた文言の記録、書き置き書類等も発見されるかしれませんが、そこまで探求出来ないでいます。
残念ながら八王子中心に伝承されてきた地元の古流武術の全ては残念ながら完全に途絶してしまっていると言うのが現状であります。

「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」……。

武術の手継ぎ継承との出逢い等は全く望めないと思うが、後は武術遺跡、奉納額等に昔の武術隆盛の面影を偲ぶしか仕方がありません。
ともあれおりに触れて出逢った武術遺跡、奉納額等について出来る範囲でレポートしておきたいと思います。

●八王子の武術遺跡探訪
其ノ1 「北野天満社の奉納額」
北野の多分武術奉納額?
江戸期以前から存在したかなり古い神社である。かなり以前(多分二十年程前)より北野市民センターにて稽古をやってきたが、その地名の元になったのが北野駅北口近隣にある北野天満社である。八王子に住み始めて北野辺の周遊のおりに立ち寄って参拝する機会を得た。その後、社殿の右横をみるとやはり奉納額がかけてあった。残念ながら風雨にされされ文字は消えている。確かに奉納額であろうかと思うが断言はしにくい。ただ武具をかける掛け具的なものが残っており、やはりここに稽古武具を取り付けた武術奉納額かと思うものである。
木刀か、むしろ感じは棒を二本かけてあったのかも知れない。おそらく剣術か棒術系の流儀かと思われるがいずれにしろ流名が不明なのは残念である。奉納額というものは流儀のプロパガンダでもあり、流儀の隆盛を願って掲げられたわけである。しかしながら奉納額の流儀を含めて八王子の古流武術はすべて絶滅し現在何も残っていない。






其ノ2 「天然理心流元祖と二代目の墓」戸吹、桂福寺
天然理心流の研究者であるので、八王子戸吹には何度か訪れた。同地の桂福寺には天然理心流元祖、近藤内蔵助と二代目、近藤三助の墓がある。またその近隣には同流を継承した松崎和多五郎の正家、松崎家があり、かなり多量の天然理心流の資料群が保存されている。同流の八角型の太木刀を保持しているのも同家である。[下写真の右が初代の墓。左が二代目の墓となる]
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其ノ3 「秋川神明社」天然理心流奉納額
戸吹より滝川街道を少し西に進むと秋川神明社があり、同社には「天然理心流奉納額」ある。松崎和多五郎が安政7年(1860)に奉納したもので中々立派なものである。ただ普段は社内に保管されおり、それを社外から確認できる形となるのみである。しかしそのおかげで風雨に晒されず、よって文字は概ね読める形となっている。
同社横には棒術系かと思われ奉納額が掲げられているが、残念ながら既に文字は読めず、流儀名その他もわからない。棒が二本掛かっているので「棒術奉納額」と推察できるのみである。しかし思うに天然理心流にも棒術(同流は棍法との表記を用いる事が多い)傳あるので、同流の奉納額であるのかもしれない。いや八王子には同流以外にも増山流等の棒術流儀が盛んであったかと思うので断言は出来ない。
[この社は厳密には八王子市ではなく、あきる野市に区分される。]






其ノ4 「鹿島神社」謎の弓術奉納額 楢原町
秋川街道を北に進んで行き、陣馬街道寄りに高尾街道に向かい、そして自宅に帰るつもりだったが、その為に枝道にはいった。
すると通りに横に神社があり、それが「鹿島神社」という事なので我も「あれっ?」と思って寄ってみた。
社殿向かって右横に回ると奉納額があった。風雨にさらされて文字も消え、つけられていた武具類もなくなっているが、その跡をみると弓がつけられていたらしい。おそらく弓術系の奉納額であったかと思われる。流儀名なども気になったが、何か記録はないのだろうか? また聞いた話では赤外線写真を利用すれば消えた文字等もある程度読み取れる可能性があるという。流石に試した事はないがどうだろう?
神社自体について調べると
寛永21年(1644)に小川六平が常陸国鹿島神宮のご分霊をこの地に遷したという事であるらしい。かなり古い伝統のある地元の神社であるわけである。
祭神は我の武術の根源として尊ぶ武甕槌命である。この武神が残した日本の古伝武芸だが、残念ながら八王子地元の流儀など全く同地に残っていない。この悲惨な日本の現状と体たらくを社中のこの武神、そして同じく奉られた他の武神達(日露戦争の戦没者達)はどう思って見守っておられるのだろうか。










其ノ5 「千人同心組頭三木愛之助の肖像画」左横に置いた大小の刀掛け
図書館でチラシをみると、日本刀入門展を八王子郷土館がやっているという事であり、そして無料だというので通りがかりによってみた。
少し手狭な感じの展示ではあったが下原刀、下原薙刀等なども出品されており、それなりに楽しめた。少し難を言えば、照明具合の為か、余り刀の地肌の深みをちゃんとみる事が出来なかった事であろう。つまり下原刀の一大特徴である「如輪肌」が余り明確に窺えなかった事。また解説文等に詳しい地元刀「下原刀」の特徴や歴史的背景、文学的、武術的繋がり等の解説がなかった事などがやや残念である。地元の伝統刀としての下原刀、そして大村加卜について「真之十五枚甲造り」の秘術を伝授された武蔵太郎が出た事。そして彼の刀が『大菩薩峠』の主人公、机龍之助の愛刀であった事等々……。
かくした説明があればいま少し皆の興味をひけた様に思われる。
また下原刀の最後の刀鍛冶となった山本某が天然理心流の師範家であった事等もいつか機会があれば大いにテーマ展示等をお願いしたい。
それはともあれ展示物をみていると八王子千人同心の組頭という「三木愛之助」の肖像画の展示があった。この人物は自己の左脇に大小掛けをおき、そして大小刀を柄を向かって右にしている事がわかる。この図は近藤勇の著名な写真とほぼ同じ様な構図である。緊急時に直ぐ刀を抜く為に、その様な配置としたのだろう。いま一つの見どころは大小刀のかける位置と、それから大小刀の下緒の捌き作法である。正にこれは古典武家礼法をそのまま写した御姿である。

●補論
ちなみに郷土館の展示解説文をみると「時代考証書籍に『刀掛けには大刀が下で小刀が上が正しい』としている本があるが、この図は大刀が上になっている」とあった。
江戸期の刀の掛け方に関しては当時の絵図等が多く残っており、その殆どが大刀が上で小刀が下となっている(稀に逆の例もある事はある)。恐らくその方が美観的なバランスとして安定するのではないかと思われる。
「大刀が下」とする『時代考証書籍』とは名和弓雄先生の本の事と思われるが、これは名和先生の聞き書きによる齟齬の部分と思う。
近藤勇の掛け方は太刀掛け法をなしており、これは流儀の居合法における独特の作法だろう。下緒処理法も然りである。
江戸期の武家の礼法、作法というものは決して一元的なものではなく、流儀の差異や各藩における風習、慣習の問題であり、必ずしも壟断的に「間違い、正しい」の観念で捉えるべきではない。
ただ概ねは大刀を上になすのが一般慣習であっただろう。そして床の間に置くには差し表を見せる様になすのが普通。自己の座右……ではなく、左側に置く時は、それ自体が臨戦体制と同じ意を含み、よって柄は向かって右となるのが普通の慣習。ただ床の間置きの時において、流儀の立場、独特の術理をもって、小刀を上にした流儀も存在した可能性はあるかも知れない。流儀の武家作法と教えは普遍的慣習法を超えるものだからである。






其ノ6 「御嶽社」狭間の棒ノ手
八王子で育まれた流儀武術は全て滅びてしまっている事は既に解説した。それは残念ながらその通りなのであるが(管理人の知らない流儀、流脈が何処かで未だ継承されいるのかも知れない……だとすれば大変素晴らしい事だが、果たしてどうだろう?)、郷土傳の流儀武術の僅かな痕跡として狭間には天然理心流の棒ノ手が現存し、祭りの時に公開されている事は大分前から承知していた。
実際の技は記事にもなったし、またネットを通じて動画等を拝見した事もある。確かに古伝棒術の面影を伝えるものであり、武術的な立場からも参考になる点が多々ある。
我自身、天然理心流の研究者として剣術系は大分探求し、切紙から免許皆伝までに至る全ての古典形の復元稽古をなした事があるが、同流の棒術傳の部分に関しては、六尺棒は未だ手つかずである。ただ半棒術(四尺五寸)に関しては優れた形解説文書が残っており、それによって全傳復元した事があり、この傳は我が地元で免許を頂いた他の杖術流儀の別傳技法として教授している。
それはともかく、狭間は現在多く稽古している体育館の場所そのものずばりであり、また自宅からも極近隣である……はずである……?
よって機会あれば一度見てみたい思っていたが、表演場所を調べると確かにいつも通る極近隣の神社で行われるらしい。「御嶽神社」という事であるが、殆ど案内看板などもなく、いまいち分かりにくく、今まで場所を認識した事がなかったが、思い立って探訪してみた。正に極近隣の筈なのだが……?
ネット地図を頼っていっても看板等がない為、若干迷ったが、拡大地図どおりに進むと何とか石階段下に突き当たる事が出来た(クロスバイクはここまで)。石階段を見上げると鳥居が見え「御嶽社」とある。社殿にもその様にあるのでこれが正称なのかも知れない。奉納額等を期待したが残念ながらその様なものはなかった。どうも年に一度の表演で有るらしい。江戸期からの古い伝統ある行事がそのまま護られている事を慶賀したい。
しかしその棒ノ手の源脈となった江戸期八王子で育まれた地元流儀武術はもう日本中のどこにも存在しないのである。後は社殿に正対し、自己の無能を謝し頭を項垂(うなだ)れるより仕方がない……。






其ノ7 滝山城後探訪
思った通り何もないが、環境は良し。
[令和三年十月十五日]
高尾に棲んでいるので近隣の史跡等は探訪してみたいと云う想いと志はあったが、八王子はやはり起伏が多く、クロスバイクでは中々に機動力不足であり、またかなり苦行となるので後込みする事多し。よってややそれを補う事を考えて電動アシスト自転車を導入する事とした。昔と違って中々の高性能となり、100キロ位は走破できるらしい。
余り額面通りには受け取れない……かと思ったが、これはノートパソコンのバッテリーの持続時間の事、この洗礼と同じ様なものかと思ったからである。実際これは額面スペックの半分以下しか持たない様に思う……。ただその原因は我が常にモニターを最高輝度で用いる為かも知れないが、しかし仕事で眼が悪くなってはそれこそ困る……。
しかし高尾から史料閲覧の為に武蔵野図書館への往復にアシストを用いたのだか、中々優秀で額面以上に保った感じであり、これなら高尾から新宿くらいは楽勝の様に思われた……。
それはともかく滝山城入口から入って山道をゆくと思った以上に急勾配であり、電動アシスト程度では難しく、押して登るはめに、そして下りの部分はでこぼこ石畳みでいずれにしろ降りて押してゆくしか仕方がない。これならばクロスバイクで来た方が楽であったのかも。とはいっても自力バイクでは入口に着く前と出た後に拝島辺を廻って帰宅する行路が中々大変で、この部分は確かに電動アシストが楽である。クロスバイクで何度も通った道筋であり、全体が中々に難行路なので、滝山城による気にならなかったと言う事である。
ともあれ滝山城跡の事であるが、予想はしていたが、やはり何もない。石垣も殆どないようであり、幾つか神社等があるようであるが、当時の古刹なのか、後付けなのか不詳。
ただ環境はそこそこ良く、野外テーブル等もあるので、ゆっくり出来る環境であるかとは思った事である。かくした自然の中で読書をしたり、パソコン仕事をしたりするのもまた愉しからずや。
この遺跡は北条氏照の……等といった事績、歴史背景の事は八王子公共施設、図書館などにおいてある漫画解説書やホームページに詳しい記載があり、我が新たに説明する必要もないので省略。
同地北条氏と下原鍛冶などと関係も興味深いが、我自身余り専門ではないので、この部分も下原刀研究書籍等(幾冊かある様である)に詳しい解説がありお任せしたい。









其ノ8 八王子城探訪
元八王子町の意味が判った。
[令和3年10月29日]
平地ならば普通のクロスバイクでも十分なのだが、坂道は流石に疲れる。よってつい億劫になり敬遠しがちになるが、そういう場所でも次いでに寄る気になれるのが電動アシスト自転車のよい所である。近隣にある八王子城跡辺によってみた。
麓まで自転車で、駐輪所に駐輪し、そこから山道40分と言う感じとなる。一応迄本丸迄踏破。しかし感想は城らしい所は殆どなく、これはやはり山城と言う感じだろう。天守閣がないのは流石に寂しい。
これで国定の重要史跡? と言う点には少し疑問には感じたが本丸道ではなく、やや枝分かれした御主殿跡辺には石垣などが遺っているらしい。この辺への探訪はまたの機会に。