武術各論/目次

日本古傳剣術の實相

古武道から秘伝、秘技、奥義技等が失われた原因について

維新以降の古武道が欠落してしまった奥傳、祕傳の部分の実際について

「武禪道」とは1 概論
「武禪道」とは2 具体論

「武禪道」とは1 概論


「武禪道」とは

「武禪道」は当サイトが古傳武術伝承の立場で、天狗傳武藝と平行して極めて重要な要素として捉える古傳武術における独特の形而上学的武術文化である。

日本古傳武道の技法傳は極めて高度かつ膨大であり、確かに極めて重要な傳であるが、「武禪道」は教えの次元を違えながら、これも別の意味で極めて重要な古傳武術文化の一端である事は事実である。しかしながら現代武道、現代古武道においてはその殆どの部分は既に失われた……。


よってこれからそれを解説して行きたいと思うのだが、その取っかかりにおいては最初から障壁がある。即ち「武禪道」と言うのは一般的ワードではなく、武術系でもそれほど用いられる言葉ではないと言う事である。我の武術道脈の中において用いられている割合独特の言葉なので、その内容も含めて解説しておこう。

その道脈は我の先代から平成の初期位の時期に代を受け継いだものである。名称的には独特の部分もあるが、内容的には本来の伝統古流武術としては伝承して置かねばならない伝統武術として極めて重要な傳である。我がかつて学んだ関西の地元流儀の各流にも名称の相違や纏め方の違いはあったが、それぞれ同質の傳をそれぞれある程度含有していた。しかしながら近代的な組織化古武道では殆どみる事は出来ず、また関東系の流儀もちゃんと伝えている所は極めて少ないと観察する。関東系武術師範の中にも個人的に傳を受け継ぎ、「禪機」を以て流儀を指導される師範も僅かながらおられるかと思うが、余り纏まった伝統的な体系をもつののは少ないと言う恨みがある。

ただ他流の事は余り誹謗すべからずと言う基本的な掟があるので、他流における名称や有り様には余り言及せず、我自身が受け継いだ道統の立場において、流儀の用語においてもなるべくやさしく分かり易い様に解説してみたと思う。


歴史

「武禪道」は基本的に「不立文字」を建前としており、「天狗傳武藝」と同じく、余り纏まった文献史料は比較的少ない。多くは口傳として継承されてきたものであるが、周辺文献は「禪文化」と言う立場においてはかなり膨大な古文献が存在し、また「口傳」と謂いながら我が先代から頂いた直筆の『口傳書』をかなり膨大に保有している。

その歴史についても口傳、及び『口傳書』等にて伝えられてきたが、この秘文化における「遠祖」は達磨大師であり、「元祖」は上泉伊勢守とおく。しかし実質上の開祖、「道」として纏め上げた中興之祖とも言うべき「道祖」は三人いて、「澤庵禅師/柳生十兵衛/荒木又右衛門」とする。

実際「禪学」の元となったのは達磨大師である事は事実であり、そして達磨大師こそは天竺武藝の大家であった。ただこれは勿論古代支那大陸における傳であり、嵩山少林寺以外の道脈では武術傳とは分かれ、純粋な精神の教えとして発達したものである。

そして達磨大師が興した「禪学」はこの様に支那大陸に長く伝搬し、そして栄西、道元等によって日本に流入し、日本両禪師によって和風「禪教學」としての一つの完成をみたのである。

しかしながら時代は下り、戦国期に至って天才剣士上泉伊勢守によって再び武術傳と合流、合体させられたものである。原典、原脈は天竺佛教傳であったかも知れないが、日本の戦国期において伝統武術における重要な精神文化教學として花開いたものである。


天才上泉伊勢守

天下の剣豪、上泉伊勢守は正に天才であった。其れまでの日本にも高度な技術傳を保有する伝統民族武藝(天狗傳武藝)が勿論存在したが、それを真に超絶的なる「古典流儀武術」と言う一段も二段も高い伝統武術文化の究極形態を提示したのはまさしく伊勢守の一大業績であった……と我は認識する。

それは其れまでの武術家、日本を含め、世界の武芸者たちが遂に至れなかった神聖武術へ高見であり、「流儀武術」の発明は実質的には正しく伊勢守であると我は考える。

勿論伊勢守以前にも日本武道は存在したし、また「流儀」の名乗りも全くなかったわけもない。しかしそれらは代々の継承者たちが次々と文証を残しながら古典を引き継ぐ「古典武術」の段階に必ずしも達したものではなったであろう。何とならば「古典武術」と言うのは時間と空間の縛りを受けなければならない人間の本質として、本来的には「不可有」の武術だからである。即ち「古武術」「古流武術」などと言うものは本来存在しようがない。技術とは本来日々進歩して行く宿命もの存在だからなのである。

時代と共に歩まねばならぬ武道……それが実用技術傳の宿命であるのかも知れなかった。

古代西洋にも勿論武術は存在したし、多くの名人、強者も輩出しただろう。

しかし技術と言うものは確かに進化してゆく。鉄砲が発明されて西洋の古傳刀剣文化は忽ち衰退したし、古い武器類も忽ち骨董品である。

それは当たり前の事であり、今日Windows95を以てパソコンを仕事として運用している者などいる筈がない。実験や骨董的愛好は別としては実際の仕事としては無理である。

世界の武術文化を見渡しても日本の古武道とは色々な意味で特殊であり、真に飛び抜けた奇怪なる武術傳である。それに近い存在として、強いて言えば中華における伝統国術、中華武術傳がある。これは確かに武術ステージとしては「門派武術」の段階に達しており、正に日本傳「流儀武術」にある程度迫るものであった。しかしそれは最期の最期の所でやはり日本武術には及ばない……。何とならば、それはやはり「古典武術」の段階ではないからである……。

いずれにしろ日本武術は本当の意味で世界無比にして独特の、正に「不可有」の存在なのである。


「不可有」の武術

それでは何故にその「不可有」の武術が日本のみに存在し得たか。その為に重要な二つのアイテムを設えたのが正に上泉伊勢守なのである。

日本古流武術を成立させる為の不可欠の要素は即ち「伝書文化」と「武禪道」なのである。伊勢守が柳生家に残した永禄年間の『影目録』は余りにも著名であり、日本の伝書文化の嚆矢に限りなく近い存在である(※)。

伊勢守は伝承武術の内容を絵目録にして認めた祕傳書を伝承門人に授与し、伝授を確定的なものにし、そして流儀の武術古典を明らかとしたのである。


※ 伝授巻として『祕傳書』を作成した嚆矢、発明者については不明瞭な部分もあり、異説の若干残る所である。伊勢守の先代、愛洲移香斎の業績との説もある様である。ただ初代移香斎直筆の伝書は残念ながら現存しておらず、断言できない。ただ『影目録』と同じ様な時期に中華の武藝書に陰流系の伝書が引用されており、移香斎伝書の方が古いと言う可能性もある。ただ伊勢守が学んだのも初代ではなく、二代目とも言われており、伊勢守や二代目の時代にその様な文化がやっと完成したのではないかと考えれるのである。
そして師範家における武道祕傳書的なものはいま少し時代が遡る可能性はあるだろう。
しかし伊勢守が行ったのは伝授した門人に授与した『伝授巻』としての武術祕傳書であり、この様な存在、この様な形式で伝統武術の継承を行った武術……それは世界に類をみない、極めて特殊な存在であり、伝統ある中華武術と雖もこれには及ばない。


「武禪道」と言う驚愕の武術精神文化

伊勢守が発明したと見られる「伝授巻文化」によって「古典武術」「開祖伝来武術」……即ち日本の「流儀武術」……「古武道」と言うものが確立したと言えるのではあるが、この段階ではこの「古典武術」は「不可有」の存在である。古い形の古式武術がその儘の形でいつまでも続く筈がない。しかし実用を旨とする「武術」において「進歩」を否定する事は出来ない事なのだから……。伊勢守と雖も所詮は人間であり、さすれば「完全武術」を作る事は所詮は不可能であるのだから。しかしながらその「不可有」の武術をこの世に有らしめ、そして永遠であらしめる為にいま一つのアイテムを創始したのである。

……それこそが「武禪道」なのである。

日本の武術は恐らく神代の時代は古典的な神道の教えや修験道傳の神傳神法等を基盤としていたのではないかと思うが、平安の初め頃に密教が流入すると、不可思議なこの秘密佛教文化を取り入れ、祕傳法や奥の精神的な基盤として利用した。

ところが数世紀後に流入してきた「禪教学」を武術の中に取り込んだのが上泉伊勢守ではないかと思われるのである。

「禪」文化における様々な局面を武術にも応用したかと思われる。自己の流儀に禪用語を多く取り入れて形の名称付けをなしたし、また禅問答の様式を用いて武術極意教傳のメソッドとなし、そして無限祕傳法世界を古典武術の中に構築する事に成功したのである。


公案

残念ながら上泉伊勢守の代における彼の「武禪道」の構築がどの様なものであったのか、史料少なく、余り判然としているわけでない。その様な名称の道脈が完全な形で存在したわけでは流石にないかと思われるのである。

ただ僅かな伝聞、記録から察するに各門人に様々な公案を提示し、無限祕傳法世界の道筋を開いていたのではないか推察する事ができるのである。

著名なのは柳生石舟斎に与えた「無刀之位」の公案である。即ち伊勢守は一通りの自流剣法の形教傳を授けた後、「無刀之位、是レ如何」と公案を提示したと言う。石舟斎は伊勢守が去った後、師匠から授かった重要な宿題として、日夜探求工夫し、遂に「無刀之位」の極意解答を発明し、それを後に伊勢守に示した後に伊勢守に流儀の「允可」を授かったと言う。そしてこれは同流極意を授かったのみならず、「武禪道(特に当時その名前が存在したかは不詳)」として独特の教傳法を授けられたと言う事になる。

真にしかりであり、流祖を持つ日本の流儀武術と言うものは確かに素晴らしい。それぞれの時代の武術名人である、各開祖が編み出した武術古典と極意傳をそれぞれの流儀祕傳として連綿と継承すると言う事。その事によって単一民族伝統武術文化の範疇を遥かに超越し万余の流儀武術として発展し、正に万余をまた万倍する無限祕傳法文化が全国に万朶と咲き誇る事となるわけである。

しかしながらかくした日本の流儀武術一つの欠点として、単に古典形のみを継承すると言う旧弊な形しかとれないとしたら武術技法や各武器形態の技術進歩と言う歴史推移に取り残される事になり、やがて使い物にならなくなるのである……!

しかし日本の流儀武術と言うものは「古典武術」とは謂いながら、またそればかりではない。伊勢守が流儀武術醸成期に仕込んだ「武禪道」と言う特殊アイテムのおかげで常時アップデートが可能となり、古い儘が常に新しいスーパー古式武術として生まれ替わる事ができるのである。


具体例

やや抽象的かつわかりにくい解説が続いているが、これは『武禪道』と言う秘密に満ちた魅惑の文化形態の全貌を明かすことは最初からタブーであり、表に出す事によってその本体自体が死んでしまうと言う問題があるからである。

よってややその実際をもっと判りた易く、やや略式的に説明する事とする。即ち、武術伝授の端々において、師匠は門人に様々な公案を提示すると言う事である。

「如何なるか是れ武道」「如何なるか是れ極意」「無刀の極意は是れ如何」「多数の敵に対して是れ如何」「百尺竿頭一歩先の空中浮遊の方法、是れ如何」「背後の敵には是れ如何」……。

師匠は正にその時々、「禪機」を捉えて問い続け、門人の機微、武術機転を引き出すのである。そしてその事によって同流派に足りない武術極意、秘技が日々補填、修正されていく事になる。正にセキュリティアップデートが日々行われ、完全武術に近づいてゆく事になるのである……。


流儀の核

各流儀の根源、その核とも言えるのは確かに「古典形」であり、この部分は如何に時代が替わろうとその儘の姿で墨守すべきである。しかし代々に流儀継承の過程において「武禪道」と言う祕傳アップデート方式を取り入れ、それを古典型の上に被せ古傳武術と言うものをより深いものにして行くと言う方式が固定化した……。よって日本武道というものは世界に類をみない本当に高度にして超絶的なものになっていった……。ただ時代が移り、その超絶的で膨大なる武術祕傳文化の殆ど全てが消滅してしまったわけなのであるが……!


「武禪道」の必要性

管理人が先代より傳を授かった『武禪道』なる道脈は個人的な単なる「禪機」と言う様な小範囲の意味合いではなく、長い時間をかけて整理、体系化がなされた深い精神文化教傳の集合体である。

余り深い説明をなしても直截的には理解して頂けないかと思うので、別の方面からその本質を描写して行く事とする。

一つには、何故にこの様に面妖にして高度なる形而上学的文化が武術と言うフィジカルな技術傳世界において存在するのかと言う事。……即ち「武禪道」の必要性と言う事を考えてみよう。

伊勢守や、或いは愛洲移香斎以前の古傳剣術と言うものは技法が体傳口傳として伝えられ、余り固定した古典形と言うものが不明瞭な部分も多かったかと思われる。形教傳がなかったとは思われないが、ただそれはある程度伝統的ではあっても、所詮は各個人が制定して伝えるそれほど固定したものではなかったと思われる。何せ口傳で行われ、それを固定的に記録した文書が殆ど作成されない時代の技術傳であり、確定的なものは余り残っていない。

かくした無形文化を文書に記録して固定した言う事。そしてまた単なる技法傳に止まらず、古典形と言う流儀の核の部分を整理し醸成したのが日本におけるこの時代、戦国後期頃の剣術名人たち……その代表格とも言えるのが伊勢守であったかと思われるのである。

即ち無形のものを整備し、流儀剣術のちゃんとした古典形として結晶化、文書化したと言う事であり、これは武術文化発達史上の確かに大変に大きな業績であった。しかし真の武術祕傳、極意と言うものは真に奥深く、単なる形教傳のみでは伝え切れないものも数多い。

「形(新陰流では勢法と称す)」として結晶化できるものは何とか善しとしても、問題は形に出来ない無形にして透明な形而上学的極意秘法の部分である。それこそ究極的極意とも言える極上の部分なのであるが、正にそれこそが『星の王子様』の狐が指摘するが如くの「本当に大切なもの」なのである。「本当に大切なもの」、真に重要な「極意」は「目に見えないもの」の中にある。

かくした無形の「極意」の究極的伝授法として、ぎりぎりの立場で編み出されたのが「禪」の公案と言うものであり、そしてそれを達磨大師の時代と同じく、武術と合流させる事に成功したのが伊勢守であった。そしてそれこそが、日本の後世の流儀武術の殆ど全てに巨大な影響を与えた形而上学的武術文化である。

即ちそれが後代の完成された「武禪道」の道脈の源脈となっていったわけである。


星とたんぽぽ

大切もの……真の武術極意は確かに目には見えず、そして実を言えば、それに加えて言葉にも文字にも表せぬものである……!

しかしながら無形無音、無味無臭にして不可触なる武術極意等と言ったものをいかにして後進に伝承して行けばよいのだろう? 武の究極的高嶺に至った日本の大先達たちは頭を振り絞って工夫したに違いない。

自己が長年掛けてやっと会得した極意をいかにして次代に伝えるかと言う事。目にも見えず、言葉にも文字にも、絵にも出来ないものの伝承法とは……?

武術の究極奥義……それは目に見えないからといって、存在しないと言う訳では決してないのだ。正に「星とタンポポ」(※1)の譬えであり、また「仮名手本忠臣蔵」(※2)序段の嘆きでもある。


※1「青いお空のそこふかく 海の小石のそのように 夜がくるまでしずんでる 昼のお星はめにみえぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。
ちってすがれたたんぽぽの、かわらのすきに、だァまって、春のくるまでかくれてる、つよいその根はめにみえぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」[金子みすず『星とタンポポ』
※2 「嘉肴有りといへども食せざれば其味はひを知らずとは。国治つてよき武士の忠も武勇も隠るゝに。 たとへば星の昼見へず夜は乱れて顕はるゝ。例を爰に仮名書の……。」[竹田出雲『仮名手本忠臣蔵』序段書き出し]

拈華微笑

二千五百年の昔、天竺の大覚者もその部分には随分悩んだのである。

覚りを開いた後、自己の覚りの深遠微妙と無上難解とを認識し、極意伝授を一端は断念したしたと言う。ただ流石にかくした傲慢を梵天神に叱られて、求道する衆生たちに対して、自己の覚りを言葉を尽くして獅子吼して行く覚悟を定めたのである。

以後正に四十余年にわたって言説縦横を尽くして説き続けたわけであるが、真の極意は本来言葉なんぞで表す事の出来る様な浅薄なものでは最初からなかった……。表面的な道徳律はある程度浸透した様にはみえたが、真の極意は誰も覚る者がいない。武術で例えれば伝承古傳形は皆概ね演武する事は出来る様にはなったが、残念ながら最後の武術極意に到達するものは誰もいないのである。

自己が究極的に会得した極意奥義……教えても教えても本当の意味で会得する者は誰もいなかった……。

絶望的な心持ちを天竺覚者は数多の門人の前にて最期に吐露する。

「我に正法眼蔵・涅槃妙心・實相無想・微妙の法門有り。だがそれは本来、教外別傳、不立文字のものである。よって最後の究極奥義は以心伝心、以體傳體にて伝えるしか仕方がない」と嘆き、最期の最期に金波羅華を捩じって門人たちに極意を暗示するより仕方がなかった……。しかしながらかくした極意提示によって、皆がその極意を忽ち体得出来たわけでは決してなく、呼応して極意の受け渡しに成功したのはたった一人のみだったと伝えられる。

これこそが正に『武禪道』の原点の原点であり、道統の真の源脈、始発は達磨太子以前のこの時点にあったと言えるかも知れなかった。

以後その道脈が以後代々受け継がれ、徐々に東方地帯に流傳し、究極至高の武術精神文化道脈として極東日本の地にて華開くまで、その時点より二千回以上の寒暖四季の繰り返しを必要としたわけである。


超絶的なアップデート法

凸国人の著作であるが、『鉄砲を捨てた日本人』なる日本文化紹介書籍があった。

我自身、同書をそれほど読み込んでいる訳ではないが、題名のみから判ずれば、これはかなり奇妙な何とも頓珍漢な書題である。

何とならば日本人は決して「鉄砲を捨ててはいない」からである。寧ろ凸国から流入した最新兵器を忽ち模倣し、より精度の高い良品を大量に忽ち製造し、実際戦争に多いに利用し、そして関ヶ原以降も純和風の流儀武術、「砲術」として昇華し、大いなる発展を遂げているからである。

ただここで世界武術史上、驚嘆すべきは砲術の発展は別にして、日本人はだからと言って「剣」を捨てず、逆に身心錬磨の為の極めて優良な武術文化として超絶的な大発達を遂げているからである。

ゆえに管理人が書題をつけるとすれば『(鉄砲と言う新兵器が流入しても)剣を捨てなかった日本』と言う事になるだろう。これは確かに真に奇怪な事であり、日本武術文化の大いなる不可思議である。

何故にその様な不可思議武術が成就したか? それこそが上泉伊勢守が発明した二つのアイテムのお蔭であると言う事なのである!

「流儀祕傳巻」にて古典を確定し、そして「武禪道」と言う不可思議アイテムにて、古典は古典として墨守しながらも流儀自体を時代に合わせて無限にアップデートする事が可能となり、古いままが常に新しい、奇怪至極なるスーパー流儀武術と言うものが日本の戦国期半ばに完成したわけである。


「武禪道」完成前後

我の道脈では上泉伊勢守は道の原脈として勿論尊重するが、「武禪道」としての完成は以後の江戸柳生家内にて行われ、そして百年かかって遂に澤庵禅師によって道が整備されたとなし、同禅師を道の開祖とおく、加えて「柳生十兵衛」「荒木又右衛門」の両剣豪の働きも大きく、この三者の合力によって完成されたと考えるのである。

そしてその道脈は直接に系脈が繋がらない流儀においても極め巨大なる影響を与えた。これは文献的な立場でも証明できる間違いない事実である。

少し武道における至高の超絶精神文化「武禪道」醸成期における他系流儀武術を含めた前後期間の様子をみてゆこう。


伊勢守以前

澤庵禅師や伊勢守の以前には類似、同様のその様な深い精神文化がなかったかと言えば、これは決してそうではなかったと我は考える。「武禪道」の遠祖を「達磨太子」におく由縁でもあるが、実を言えば必ずしも「禪教学」の教脈外においても同様の精神文化は日本武術の深い処にちゃんと存在していたのであると我は考える。「武禪道」の様な整備されたシステムや優れた明確なるメソッドにまでは及ばないとしても、武術教傳法として類似の方式はある程度採用されていただろう。そうでなければ神代からの古式武術というものが、長い伝脈の中で正統な発達をなせる筈がない。

ただそれは各師範の個人的な「禪機」「センス」と言った各人の才能にかなり頼ったものであったと考えられる。

そして実際、「禪教学」流入以前の日本においては日本古来なる「歌合わせ」と言う深い極意文化によって、なされていたかと思われるのである。

ある意味「武禪道」とは「歌合わせ法」の進化形と捉える事も出来る。

しかしなから「歌合わせ」方式が何も「武禪道」に進化移行したと言う事ではなく、寧ろ「武禪道」の一端として、同方式も受け継がれてゆき、日本武術の精神文化がより豊かなものとなっていったのである……。


日本文化の深奥

技術とは必ずも進化するという事のみでは捉えきれない部分がある。古い技術と言っても、それが新技術に全ての点において劣っているとは必ずしも言い切れず、古い技術の善さの部分も多々あるはずである。増してや「文化」という立場においてはなおさらの事であり、この様な立場と認識の奥にこそ日本文化の深奥がある事を知らねばならない。


プラスα

日本文化の極意、深奥を単純化して、一つのワードに表せば、それは「プラスα」文化と言えるかも知れない。また凸国文化の有り様との差異をいうならば、「カット&編集ペースト」が凸国式で、日本の場合は「コピー&編集ペースト」いう事になる。


御製

日本文化の深奥、その心を明治大帝は次の様に詠まれた。


「善きをとり 悪しきを捨ててトツ国に 劣らぬ国となすよしもがも」


真に深い御心を顕した秀逸なる御製であるが、明治期においても中々時の政に浸透せず、そして特に終戦以降の日本はかくした御心を如何にないがしろにしてきたのであろうかとは思うのである。

新しいものを必ずしも排斥しようとは思わない。また旧弊は確かに払拭してしかるべき。しかしよりよき古典はやはり細心の心を尽くして保存、継承して行くべきはないか……。

そういった事が全く出来ていないのが現代の日本の現状であり、既に日本が日本でくなってしまっているという事なのであろう。


不立文字

神聖にして深遠なる日本古傳武術の祕傳中の祕傳、その秘密奥義を司る「武禪道」の實相を解説しておきたいと思いながら、その核心部分の真相部分に中々踏み込めないでいる。何とならば、その本質は正に「不立文字」の「空」なる存在であるからなのである。言語とは真に便利な人類の発明品の中で最良のものの一つであり、どんな説き方も可能と言えば可能である。

しかし……武術極意、「武禪道」の深奥はやはり言葉で説く事は難中難事にして本当に不可能事に近い。

「可能だが、やはり不可能」……矛盾の様だがその通りである。何とならば、真の極意は言葉で説く事によって極意が極意でなくなってしまうからなのである。

それは仏教学的に言えば「空」の思想と捉え方であり、極意に至る道筋に必ず立ちはだかる目に見えない絶対障壁のなのである。


「空」とはなにか?

「禪」とは正にその「空」を説く、「空」の専門教学であり……いや「空」とは説く事が本来出来ないという事を教える教学であるとも言えるのである。

『般若経典六百巻』を読破しても「空」は掴めない。所詮は掴めない事が判るに過ぎないのである。

何とならば、主観と客観を超越した絶対存在、確固不動の「有」なる存在など、この世に存在しないからである。

言葉では捉えられない「空」を説く為に先人たちは逆に膨大なる言説を尽くした。

我の先師はある時、「空」のを譬えを以て次の様に説明された事がある。

「『空』とは分解すれば即ち『ウハエ』という事。『ウハエ』とは即ち『宇宙は絵』という事であり、現し世というこの全宇宙は確固不動の絶対實在ではなく、所詮は映像であり、天幕に映し出されたものに過ぎないである。明石天文台の丸天井の映像宇宙と同じ事。故に映し出された星々を実際に掴む事等は畢竟不可能である……」


仄かなる夢の中にこそ

またある時、先師は次の様にも説かれた。

「武道における本当に稀少なる祕傳……それは確かに存在する。しかしその最初の祕傳は、その武道の奥に祕傳が存在するという事自体が祕傳でなければならない……。

流儀の奥に秘法、祕傳があると言えば、皆それを学びたがる。

そして突き詰められて最後に祕傳が祕傳でなくなる時がくる。皆が会得した祕傳……そんなもの、最初から存在する筈がない。故にこそ、

『祕傳は常に在ませども うつつならぬが哀れなる。人の音せぬ暁に仄かに夢に見へたもふ』……という様なものでなければならんのだ……!」


武門関

説ける範囲で説明を続けよう。実際的に「武禪道」という古傳の超絶的武術精神文化は武術錬磨の過程においては様々な「関門」を設けた。それは正に武道における登竜の関門「武門関」とも言えるものである。しかし極意に至る道筋にどの様な関門があるのか、もしくは関門がある事自体ですら説明してもならないものなのである。

何とならば、関門があると判れば人は身構える。関門を何とか透過し様と公案に対して模範解答を求めようともし、そして最期はカンニングペーパーまで用意する。さすれば関門が関門になくなってしまうのである。故にこそ趙州和尚は最後に猫を斬らざるを得なかった……。


画竜点睛

「武禪道」の存在、武道教伝上におけるその「有無」は各武道の「死活」問題にも直結する事である。

武道教傳をなす師範に「禪機」がなければ、正にその武道は忽ち形骸化し、死んでしまった骸骨武道に成り果てる。「禪機」を以て指南できて初めて武道の技が活きもする。

ただ実戦的な武術技法のみが良いという事では決してない。

古流武術など所詮は骨董武術であり、最新高度なる新鋭の技術や強大新兵器群に立ち向かえる筈もない……というより正当な古流武術の形は全く実戦向きではないように最初から設えられている例まであるのである。

そしてこんな武道歌がある。

「形は教へて手は解かぬ。佛造って魂入れず。龍を描いて瞳なし……。これが武神のやり方じゃ。

道は自ら行ずべし。説けば心が失わる……」


技を超えた世界

古い流儀の古典形は神韻縹渺として単なる技を超え、真に超絶的な芸術の世界を構築している……。必ずしも実戦武術技法の表現ではなく、流儀の開祖の最期の極意世界の描写であり、天地の真理を表現したものである……。

そんなもののみで実際の敵と戦える筈がない。

現在の多くの古武道入門者が、最初に向き合わねばならないのは現代式古武道の非合理な形と奇怪なる術理である。

真の極意は「武禪道(もしくは名前を変えた極意教傳法)」を通してでしか理解できない。この方式は「武道」が「武道」であるが故に古から掟として定められた事であり、現代古武道は殆どの場合此処の部分を超える事が出来ず、価値の殆どが消失してしまう事となるのである。


形と技、そして錬功法

ずっと昔、我は「古武道に伝わる形をいくら稽古しても殆ど実力は付かない」と発言した事に対してある古武道家から反論された事がある。「そんな事は絶対にあり得ない」と。

我が最後の曖昧部分を残して「殆ど」と付した部分をスルーして「絶対」という反説で返された事に無理がある。そしてその事を含めて、これは真正の古流武術の有り様として、本来付随しなければならない「天狗傳武芸」と「武禪道」の部分が現在の古流武術には殆ど欠落しているという事であり、よってその部分における認識が出来にくいのではないかと思うのである。

それは「形」と「技」と、その「錬功法」、そして「武道錬磨の各関門を形成する古式の口傳教伝法」などとの関連と繋がりが殆ど消失してしまっているという事であろう。

勿論全ての全てが消失したとまでは言わない。

現代武道の中では講道館式柔道が「天狗傳武芸」の部分を「乱取り」「打ち込み稽古」「投げ込み稽古」「組討ち法の口傳システム」という風にやや形を変えてある程度伝承しているわけであるが、それに比して、現代の古武道では逆のその部分の殆ど完全なる欠落が見られる。

そして「武禪道」の部分は所詮は各個人の「禪機」「センス」という問題に帰するとは言え、残念ながら武道が(古武道も含めて)組織化、家元家する過程において、その殆ど全ての部分は消失してしまっていると考えられるのである。


「武禪道」によって起こるパラダイムシフト

真に不可解なる日本古傳武術の古典形、それは確かに極めて奇怪にして面妖な存在である……しかしそれゆえに日本古武道など全く非実用、非実戦的と言う事なのか、それとも、かかる故にこそ本当に「素晴らしい芸術」「祕傳武術」として認識すべきであるのか? 

かなり微妙な判定になるかと思うが、我は基本的には後者の立場である。故にこそ日本武術は正に「祕傳武術」と言えるであろう。

普通の者には実戦武術としての効能は余りない。ただ逆に「天狗傳武芸」や「武禪道」の技術や秘法がプラスされれば本当に法外なるスーパー武術として転化できる。

かくした独特のキーアイテムを鍵穴に挿入する事により、正に超絶的なるパラダイムシフトがおこると言う事……。

古の武の先達たちは正にその様な独特のシステムを夢想して日本古流武術と言うものを構築したのであろうかと思うのである。


思惑

古の天才武人たちが頭を振り絞って考えたのが武術極意の安全なる保存継承法であったかと思われる。

よってこそ流儀武術を構築し、また維新以降は普及式のスポーツ武道と、真正の武術極意と秘技を合わせ継承する古式伝統武術を分けて考え、そしてそれが交互に補填しあうと言う優れた方式を明治期に編み出したかと思われるのである。

嘉納治五郎師範における初期の思惑もしかりであったかと思われるが、ただ嘉納師範は日本武術に西洋系の二つの毒方式を最初に持ち込んだ者であり、そんな初期の思惑など成就するはずが最初からなかった。

後に発足した「武徳会」もしかりであり、普及の為に日本武術の核心部分が失われた。

嘉納師範にしても、「武徳会」のやった事にしても、それらが直接の原因になったとは言い切れないが結果論としては殆ど不成功であり、実際的に日本武術の奥秘の部分の巨大消失を招いた事は事実である。

それは「共産主義」論の基本論旨がたとい崇高であったとしても、ただ運用するのが人間である以上、決して成功しないと言うのと同じ事である。


奥傳極意秘技の発明を促す「武禪道」のシステム

日本古傳武術には多くの祕傳、秘技がある。膨大にして超高度なる祕傳技の数々……。それらは日本武道の永い傳脈の中で育まれた確かに超絶的なるスーパー技術群であるが、その進歩は時代と共に止まる事はなかった。勿論古典的秘技も数々あるが、時代の変容と共に欣求され、後代の天才武人によって発明された最新技術傳もある。例えば天文年間以降日本に移入された鉄砲に対処する技術などもしかりだろう。この様な新兵器に立ち向かうには古典武芸の旧式技のみでは不可能な場合も多い。かくした武道の新工夫を促すのも「武禪道」の大きな役割であり、実際かくしたメソッドによって様々な秘技祕傳が日本武術に付加されてきた。最も著名なのは、伊勢守が石舟斎に与えた公案の解答として、「無刀捕」が発明された事である。

そしてそれは柳生家以外にの武芸系脈にも大きな影響を与えた。即ち伊勢守が提示した公案を、流儀の壁を乗り越えて多くの武芸師家が頭を振り絞って解答をそれぞれの流儀で様々な「無刀捕」の秘技が工夫されたのである。天然理心流や氣樂流、高木流等々……多くの流儀に「無刀捕」の形が制定されている。


極意秘技の実現に必要不可欠な「武禪道」の存在

柳生家の「無刀捕」秘技と同じく、多くの流儀でも様々な「無刀捕」が存在するが、伊勢守が認可した「無刀捕」、真の「無刀之位」は柳生家独特のものであり、柳生家の秘技は正に「武禪道(当時は未だその原型だった)」がなければ発揮できない、独特のものであり、その事は我の継承した「武禪道」の中にその実際技法と口傳が残っている。

そしてそれは単なる技ではなく、正に「禪機」がなければ成立しない極意技術である。

そしてこの様に多くの剣術祕傳技の中で、特に奥傳祕傳に当たる部位は「武禪道」の奥の教えがなければ実際的に技術の発露ができない部分が多い。

我の伝える天狗傳剣法における「極意奥義十八秘剣」の中の幾つかは「武禪道」の奥傳部分を加味しなければ発現できない造りとなっているのである。

その意味も含めて「武禪道」こそは日本武芸をより高度な高嶺、それは世界の剣客、武人達が未だ立ち入った事のない、最後の武芸秘境、海内無比なる究極的祕傳武芸世界に押し上げた超絶メソッドと言えるものである。